水のある風景に思う

特別寄稿 福岡伸一

私たちも地球上に暮らす生物として、相互関係を築きながら暮らしているという福岡伸一ハカセ。動的平衡論や利他性を説く生物学者から見た、水のある風景について寄稿していただきました。

アメリカのニューヨーク市マンハッタン区のセントラル・パーク内にあるジャクリーン・ケネディ・オナシス貯水池。
写真●Francois Roux/Shutterstock.com

“きみがぼくの街を訪れるときには、だいたいいつも二人で川べりか海辺を散歩する。都会の真ん中にあるきみの家の近辺には川も流れていなかったし、もちろん海もなかったから、きみはぼくの街に来ると、まず川か海を見たがる。そこにある大量の自然の水――きみはそれに心を惹かれる。
「水を見ているとなぜか気持ちが落ち着くの」ときみは言う。「水の立てる音を聞いているのが好き」”
これは村上春樹の最新長編『街とその不確かな壁』(新潮社、2023年、15ページ)冒頭の一節である。おそらく著者自身の感懐でもあるのだろう。この気持ちはとてもよくわかる。ポイントは〈大量の〉水があること。

私は、東京とニューヨークに研究の拠点があり、しばしば2都市間を往復している。ニューヨークに滞在しているとき必ず散策する場所がある。それはセントラル・パークのやや北側。メトロポリタン美術館やグッゲンハイム美術館が建ち並ぶ、ミュージアムマイルと通称される五番街ストリートを渡って、セントラル・パークの東側から園内に入る。このあたりの敷地はやや傾斜になっている。坂の小道を登っていくと突然視界が開ける。目の前には〈大量の〉水を満々とたたえた水面が広がっているのだ。初めて来た人は、ニューヨークのど真ん中にこんなにも広大な池があることにただただ驚かされる。ジャクリーン・ケネディ・オナシス貯水池。周囲は2・54キロ。対岸までの距離は1キロ弱。そこから先は摩天楼が連なっているのだが、水面を渡る空間にはまったく何もない。ときおり鳥の群れが横断するだけだ。風に運ばれた波が岸辺に打ち付けられる。岸辺は急に切れ込んでいて水深はわからない。貯水池をめぐる遊歩道はランニングコースになっていて、頑丈な鉄製のフェンスで囲まれているので水側に落ちる心配はない。

夏は木々に囲まれ、冬は凍てついた風が吹き渡る。でもここに立つといつも私は癒やされた気持ちになり、自分が生きていることを再確認できる。それは〈大量の〉水が、絶えず動きながら、あらゆる生命の中をくぐり抜け、環境をめぐり、その循環の中のほんの一部ではありながら、自分のいのちもまたその確かな一員であることを感じとることができるからである。
貯水池はかつてはニューヨークの上水道を支える重要な施設だったが、今ではその役割を終え、静かに水をたたえるだけの場所となっている。故ケネディ大統領夫人であったジャクリーンが、この近隣を終ついの棲すみ処かとしたことから、この名前が冠されている。

福岡伸一 FUKUOKA Shin-Ichi

ふくおか・しんいち●生物学者・作家。1959年東京生まれ。京都大学卒業、同大学院博士課程修了。ハーバード大学研修員、京都大学助教授などを経て、現在、青山学院大学教授・米国ロックフェラー大学客員教授。サントリー学芸賞を受賞して89万部のロングセーとなった『生物と無生物のあいだ』や『動的平衡』シリーズなど、“生命とは何か”を動的平衡論から問い直した著作を数多く発表。他に『世界は分けてもわからない』『できそこないの男たち』、哲学者・西田幾多郎の生命論について考察した『福岡伸一、西田哲学を読む』、朝日新聞の連載をまとめた『ドリトル先生ガラパゴスを救う』など。『週刊文春』『アエラ』『婦人之友』に定期寄稿。

 

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